2003 My Place/Antalya

2003年10月19日-11月22日

トルコ共和国・アンタルヤ市・カレイチ地区


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コンセプト
2004年10月19日ー11月22日にトルコ・アンタルヤの歴史的地区カレイチで行われた国際展「Cultural Heritage and Contemporary Art」。会期一年半前の2003年1月に招聘への打診があり、この展覧会の参加がトルコでの初めての滞在制作となった。展覧会の趣旨は「歴史的な場と歴史的建造物の関係を現代的な視点から探究」「アーティストの個人的な観点を通して、プライベート/パブリック、内側/外側、過去/現在といった従来の対立項を見直していく」というものであった。私のこの地域への関心は、歴史的な遺産への直接的な興味よりも、様々な時代の痕跡が刻まれているカレイチで、人々が住むことの意味をどのように感じ、営んでいるのかということであり、それらについて理解を深めるためにカレイチに住む人々と対話し、どのような情報を得ることができるのか、ということが課題となると思われた。これまでの作品制作を通じて行ってきた地域と人々とを結びつけるプロジェクトが、私がこの地域でできるもっとも良質なことであると考え、現地でじっくりと事前調査することがプロジェクトを進める上でとても重要であると感じた。

プラン
10月からの展覧会のために、7月に調査、8月にいったん帰国して日本で作品制作、9月に再びカレイチを訪れ作品設置をする、というスケジュールを組んだ。実行委員会からの企画書やその他の資料を参照し、あらかじめ企画内容をある程度決めておいた。それは、地域の人々からのその地域についての思い出や心に残る出来事をインタビューし、それを基にしたサインボードを制作、出来事の舞台となった場所に設置するというものである。同様のプロジェクトを国内外の様々な地域ですでに行っている。カレイチに現在住んでいる人や、何らかの関係を持っている人にインタビューをし、作品を制作したい旨をアンタルヤの実行委員会に事前に伝えておいた。

7月16日ー30日 インタビュー
7月16日にアンタルヤに到着、取材の準備を始める。実行委員のTu¨layさんはすでにインタビューをする人々にアポイントを取ってくれていた。また、この地域で約10年間撮り続けている写真家のTimurta Onanさんからもインタビューの協力者を紹介してもらうことになり、彼といっしょに街の中を散策しながら人々に声をかけてインタビューをお願いし、最終的なアポイントは合計で14人となった。3日後にプロジェクト全体の通訳・翻訳をお願いするイスタンブール在住のジラルデッリ青木美由紀さんがアンタルヤに到着、手順や日程などを打ち合わせた。翌日からアンタルヤ郊外の老人ホームでのインタビューに始まり、それから毎日2、3人の人々を訪れ、インタビューを重ねた。カレイチは、日中40度を超える地元の人でも目の回るような暑さ。午後はまともに仕事できないので、比較的涼しい午前中と夕方以降にインタビューをするようにして、午後は昼寝か、涼しいホテルのロビーなどで記録ビデオを見ながらテキストの翻訳・校正を続けた。街の中を歩いていると前日にインタビューをし終えた人と街の中でばったり会い、「やあ、うちでチャイでもいかがですか?」などと声がかかる。チャイを飲みながら、また昨日の話の続きで盛り上がり、再び楽しい時間を過ごした。

8月1日ー30日 作品の制作
インタビューのビデオテープとメモを携えいったん帰国。青木さんの翻訳文を基にトルコ語でストーリーが書かれたサインボード、サインボードと共に設置する日英バイリンガルによるキャプションを制作した。制作にあたっては、大きさや色などを街の景観などの特徴を検討し、材質に関しても展覧会の会期にあわせ、屋外で1ヶ月以上は保持できる素材を選んだ。約2週間かけてサインボードとキャプションは完成した。

9月11日ー24日 作品の設置
9月に再びアンタルヤを訪れ、作品設置を行った。7月と比べて少し涼しくなったアンタルヤ。今回サインボードを設置するのはカレイチの繁華街の中である。ストーリーの起こった近辺のお宅やお店などにサインボードの設置のお願いに回った。歴史的地区ということで規制も厳しく、設置場所を見つけるのは困難だったのだが、7月に来た時に知り合ったアクデニズ大学の美術学生のZaferさんが私の作品に興味を持ってくれ、設置場所の交渉、実際の設置など、あらゆる面で手伝ってくれた。カレイチの様々な人々が場所の提供などで積極的に協力してくれた。取り付ける際に街の人々も手を貸してくれ、順調に進んだ。また、この期間にインタビューをしたひとりであるヤルチュン・ヤルンルさんの紹介により、アンタルヤ写真家協会で私のプロジェクトについての講演を行った。

この作品を通じて街の中に人々の生活や記憶がよみがえり、また、プロジェクト全体を通じて地域と人々に関する問題を地域やそこを訪れた人々に投げかけたと思う。プロジェクトはすでに終了したが、残された作品や人々の記憶が人々と地域を結びつける役割をこれからも担っていくことを願っている。


プロジェクトの参加者


アフメット・サユン(黄色いおじさん) アリ・アチャール ジェマル・イェシルタシュ メフメット・ギョズブユック イェクタ・サラチオウル タールク・アクルトプ ヒュセイン・チンリム ムスタファ・アウルナスル ヤルチュン・ヤルンル メスーデ・オルム サーフィット・ウイサル アフメット・トゥラン・クル アフメット・カヤ ギライ・エルジェンク



アンタルヤ・カレイチ地区

アンタルヤは、イスタンブル、アンカラに続くトルコ第三の都市である。プロジェクトの行われたカレイチ地区は、アンタルヤの中でも特別な地域だ。城壁に囲まれた町の中には多くの遺産が点在し、観光地となっている。またカレイチ港を丘の上から見下ろす眺めは素晴らしい。


インタビューを通じて見えてくるカレイチ

稲垣立男

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今回のインタビューでは、サインボードに記載したもの以外にも昔の記憶や人々の思い出について興味深い話を多く聞かせてもらった。対話を通じて私の知らなかった近年のカレイチの様々な面が顔をのぞかせる。

観光の街カレイチ
顔立ちがアジア系である私の顔を見て、「コンニチワ」「アンニョンハセヨ」「ニーハオ」と土産物屋のかけ声が飛び交う。港を歩いていると観光船に乗らないかと何人もの客引きが声をかけてくる。これが現在のカレイチだ。インタビューでは多くの人々が「昔のカレイチはのんびりとしていてよかった」と言うのを聞いた。
「昔はね、電気なんてなかったんだ。夜になると、どこも真っ暗だったよ。うちではガスランプをともすんだけど、外に行く時は、カンディルという灯油のランプに灯をともして、夜道を歩いたものだ。子供時代といえば暗い中に、微かな光がゆらゆら動いていたのを、夢だったかのように思い出すねえ。」(ヤルチュン・ヤルンル)
「昔のカレイチはね、風の通る、涼しいところだったんだ。港は、夕方になると涼しくなる。その頃になるとどこのうちも、お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、孫まで、南極のペンギンの家族のように一家でそろって、ゾロゾロと港まで降りてきたもんだ。」(サーフェット・ウイサル)

人口交換
人口交換とは、オスマン帝国崩壊後の1920年代に行われた、ギリシャなどの周辺国に住むトルコ人とトルコ国内に住む周辺国の人々をそっくりそのまま入れ替えてしまうという政策であり、社会的問題も多く発生したと思われる。今回のプロジェクトに協力してくれた人々の中にもこの人口交換で両親の代にトルコに渡って来た、という人が何人もいた。
「義父は、オスマン帝国が崩壊した時にギリシャとの人口交換でテサロニキから来た家族の息子でね、子供の頃からずいぶん苦労したらしいんだ。映画館で水やジュースを売ってお金を稼いでね。おつりがいるんでポケットに入れている小銭をじゃらじゃらさせるのが癖で、いつもお金を持ってる、っていうんで、小学校の時先生から「コント(伯爵)」ってあだ名を付けられたんだってさ。」(メフメット・ギョズブユック)

笑い話
「僕が5歳くらいの頃、道端で遊んでいたら、向こうから母がやってくる。手に、何か赤い包みを持ってるんだ。何だろうと思ってそばへ行くと、この包みをやぶって、中を食べて御覧なさい、という。食べてみると、世界とはこんなに素晴らしいものかという気がした。それがはじめてチョコレートを食べた時、1922年の話さ。また別の日に、頭に針金をつけた人がいて、近くに行くとその針金を外して僕の頭につけてくれた。そして、音楽が聞こえるか、というから、聞こえる、というと、これがラジオというものだといわれた。」(タールク・アクルトプ)
「私は、日本語を全く知らないのに日本人の案内をしなければならないはめに陥った、哀れなガイドなんです。お客は日本のある町の市長さんで、ペルゲの遺跡に行った時、地面に落ちている黒くて丸い光ったものを拾い上げて、これは何かと聞かれた。それはなんとヤギの糞だったのですが、トルコ語で「カッカ」だと答えると、「いや、閣下は俺だ」と身ぶりで示すので、おかしいやら、困ったやら。」(ヒュセイン・チムリン)
※どこの市長だというのも話してくれたのだが、ここではあえて伏せておこう。

若い頃のいたずら
「タバコを吸いはじめた頃、といっても14、5歳の頃なんだけど、もちろんタバコを吸うなんてうちじゃあ絶対禁止だし、近所の人に見られたら、親に言われてしまう。ってんで、カラアリオウル公園に仲間と集まった。断崖絶壁に枝の張り出した木が一本あってね、ここなら誰にも見られない。その枝に6、7人で登って、そこでタバコを吸ったものだよ。」(イェクタ・サラチオウル)
「俺は、漁師の中じゃ王様だったね。俺ほど獲れるやつは誰もいなかったさ。秘密の場所があってね。ある時、漁師じゃないやつがやってきて、お前の場所でいっしょに獲らしてくれろというんで、ちょいとした仕掛けをしてやった。白い袋を水にしずめたのさ。魚ってのは、白い色が嫌いなんだ。みんな逃げちまう。そうしておいて、はいどうぞ、とやったけどさっぱり獲れない。奴さん、不思議がっていたけど、そう簡単に縄張りを明け渡すもんか。」(ジェマル・イェシルタシュ)

家族の思い出
「まだ学校にも行かないような年の頃、私の父はカレイチの港にある小麦粉製造工場で働いていたのよ。麦を洗浄する機械の担当でね。ある晩、5階建てのその工場が火事だ、と叫ぶ人がいて、父はステテコをはいた寝姿のまま走っていったわ。私達子供も追いかけていった。工場は大きな炎をあげて燃えていて、それを見て父が泣いていた。私には、工場が燃えたことよりも父が泣いたことの方がショックで、忘れられない思い出なの。」(メスーデ・オルム)
お話を伺いにいくと、必ずと言ってよいほどふるまわれる、小さなガラス製のカップに注がれたチャイを飲みながら聞かせてもらったお話の数々は、私がトルコ滞在中に得た大切な宝物であった。


甘やかな記憶の居場所:
稲垣立男のトルコ・アンタルヤでのプロジェクト

日本学術振興会海外特別研究員(イスタンブル工科大学)
ジラルデッリ青木美由紀

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「この国では、あまりにもいろんなことがすぐに変わってしまうから、変わらないものを見つけて、おもわず涙ぐんじゃったの」。
以前、数年間の米国留学経験のあるトルコの友人と、地中海のちいさな村でバカンスをしたとき、船でしかいけない、余計なもののなにもないこの村の魅力を語りながら、彼女はそう言った。
80年代以降、閉鎖経済から自由経済に移行したトルコは、おそらくこの20年のあいだに、日本が40年かけて経験したすべての変化を、一気に受容した。裕福な階層出身にもかかわらず「子どものころ、冷蔵庫なんてどこのうちにもなかったよ」という70年代生まれのある友人も、普通の人も、いまや誰もが携帯電話をもち、メールをやりとりしている。しかし、この物質的繁栄とひきかえに失ったものの空白にひとびとが気付きはじめたのは、最近のことだ。
今回稲垣立男のプロジェクトの舞台となったトルコのアンタルヤ旧カレ・イチ市街も、そのような繁栄と空白を如実に感じさせる場だった。かつて子供達が遊び、女たちが井戸端会議に花を咲かせた通りに生活の影はなく、見事な木造の伝統住宅の建物だけがのこり、それを改装したホテルと土産物屋と、道行く人にあわよくば一枚の絨毯か陶器の皿を売り付けようとする若者の「いビッテ・シェーンらっしゃい」という声がかわりを占める。賑やかな観光地のはなやぎと裏腹に、いっしょに地中海にいった友人のことがなんとなく思い出された。
稲垣立男とともに炎天下のアンタルヤ旧カレ・イチ市街をめぐり、かつてそこに住んでいたひとびとの思い出を聞きながら、通訳するこちらのほうがときに言葉につまってしまうことがあった。失われたものへの愛惜であったり、どうしようもない孤独であったりする語り手の真実が、ある一瞬のうちに見えてしまうのだった。そしてどの真実も、その語り手の人生とカレイチという<場>と、ぬきがたく結びついている。
「話してくれることが事実とちがっていても、それはそれでいいんです。脚色や美化も含めて、思い出ですから。」
取材をかさねていくうちに齟齬がでてきたときに、稲垣立男のいった言葉が印象に残っている。
近年、文字で書かれたドキュメントのみにソースを頼らない、口オーラル・ヒストリー承の歴史という手法が、歴史学や民俗学の分野で注目されている。口承の歴史が、人の話を聞き、事実関係をつなぎあわせることで共同体の記憶を記録する公的な作業だとすれば、個人の思い違いや脚色をもうけいれる稲垣立男の仕事は、公的な記録に入りきれない個人の「思い」に逃げ場をあたえ、やわらかに受けとめる装置だ。私的で、思い出の持ち主を心地よく甘やかすこのプロセスは、学問や町並み保存などではカバーできない、まさにアートの領分である。